『王と少女の物語』-1

『精神的マスナヴィー』1巻の、一番最初の物語を何度かに分けて紹介してみましょう。


その昔、地上における権力と、同時に霊的な力とを兼ね備えた王がいた。
彼が、臣下の者どもを従えてその日狩猟に出かけたのは全くの偶然であった。
王は彼の公道で、下働きのその娘を見出したのだー王の魂は彼女に魅了された。
小鳥が、すなわち彼の魂が鳥かごの中でその羽をばたつかせるがために、
彼は金を支払い、その娘を買ったのだった。
だが彼が彼女を買い、欲するところを手に入れたかというまさにその直後に、
神の定めた運命により彼女は病に臥したのであった。
ある男には、驢馬はあっても荷を乗せる鞍がなかった、
ところが鞍を手に入れたと同時に、狼が驢馬を連れ去ってしまった。
彼には、水瓶はあっても運ぶ水がなかった、
だが水を見つけたと同時に、水瓶は割れてしまった。
王は左にも右にも医師達を集め、彼らに向かって言った、
「我らの命は二つながらにしてそなた達の手の内にある。
私の命など重要ではない、だが彼女は私の命そのもの。
私は痛み、傷つき苦しむ、彼女こそは私の癒しというのに。
私の全てである彼女を癒した者は誰であれ、
私の所有する財宝と、真珠と珊瑚とを与えられよう」
彼らは口を揃えてこう答えた、
「私達は共にあらん限りの努力をいたしましょう、
全ての知性を振り絞り、持てる力の全てをひとつに混ぜ合わせて。
私達一人ひとりが人の世の救い主、
あらゆる痛みを癒す薬は私達の手のうちにあります」
彼らは、だがその傲慢さのゆえに「神が御望みならば」とは言わなかった、
そのために神は彼らに知らしめたのだった、人の非力さを。
言葉を惜しみ省略するというのは、すなわちその心の堅さによる。
それらの言葉を口から発するとは、ただ単に表向きを繕うというのではない。
言葉を口にしながらも、その言葉の持つ魂と、
口にした自らの魂が調和せぬ者の何と多いことか!
治療を施し調薬すればするほどに、病はますます重くなり、
そして望みはますます遠のいていった。
病んだ娘は髪の毛ほどにもやせ細り、その間も王の両眼には、
血の涙があふれて流れ続けた、まるで川のように。
神の定めにより、処方された酢蜜は苦い胆汁となり、
アーモンド油も渇きをいや増すばかりだった。
ミロバランは便秘を引き起こし、緊張はほぐされぬまま、
水さえもが炎を引き寄せ燃え上がった、
まるでランプを灯すナフサの精油のように。

「神が御望みならば」=「insha Allah:インシャーアッラー」。「神が御望みならば」と付け加えることなしに、何かを為すなどとは言わないように、というのは、コーラン18章23-24節の引用です。