『羊飼いの一件について、いと高き神は如何にしてモーセ(彼に平安あれ)を叱責したか』

『羊飼いの祈り』の続きです。『精神的マスナヴィー』2巻1750行から1771行まで。


「そなた、われとわがしもべの仲を切り裂いたな」
モーセに、神よりの啓示が下った。

「そなたが(預言者として)遣わされたのは絆を結ぶためか、
それとも断ち切るためか。
結べぬ絆ならば、せめて断ち切らぬが良い。
全ての物事のうち、われが最も憎むもの、それは別離である。
われは全ての者たちに、それぞれの(特別な)方法を授けてある。
全ての者たちは、それぞれにしか為し得ぬ(特別な)手段を用いる。
かの者にとってそれは礼讃(として値する方法)である、
たとえそなたにとってそれが冒涜(として咎めるべき方法)であっても。
かの者にとってそれは真に蜜である、
たとえそなたにとってそれが真に毒であっても。
だがわれはあらゆる純粋と汚濁より超越した存在である。
(それがわれへの奉仕である限り、)われはあらゆる清濁を飲み干す。
(聖なる奉仕により)われが利益を得ようなどと定めてもいない。
いや、それどころかわがしもべに手を差し伸べて、
親しく庇護するのは他ならぬわれである。
ヒンドにおいてはヒンドの流儀こそが賞讃と呼ぶにふさわしく、
またシンドにおいてはシンドの流儀こそが賞讃と呼ぶにふさわしい。
かれらの賞讃や礼讃が、(われの)栄光と神聖を深めるのではない。
真珠のごとく純粋さと輝きを増すのは、他ならぬかれら自身なのである。
われは舌や語られた言葉を見るのではない。
われは内奥に潜む心と、その意図とを見る。
われは言葉による敬意を受け取らぬ、心による敬意を受け取る。
なぜなら心こそが全ての根源であり、
言葉はそこから発する表象に過ぎぬからである。
言葉ほど卑小なものはない、言葉ではなく真実を見よ。
美辞は要らぬ、麗句は要らぬ、虚飾は要らぬ!
燃やせ、燃やせ、われは燃やし尽くすことをこそ欲する、
炎を絶やしてはならぬ、常に燃やし続けねばならぬ!
そなたの魂を愛の炎で明るく照らせ、
思考も言葉も、愛の炎で(永遠に)燃やし尽くしてしまえ!
モーセよ、宗教を知る者の一群とは別に、
心も魂も、愛の炎で燃やし続ける者の一群があることを知れ」

愛する者は、瞬時たりともこの愛の炎を絶やすことがない。
火事で燃え尽きた村に、税を課したところで何の意味があろう。
咎めるな、愛の炎に魂を焦がす者が何を口走ろうとも、
浄めるな、その者が自身の血に塗れようとも、
殉教者には水よりも血の方がはるかにふさわしいのだから。
そして忘れるな、その者の言葉の罪の方が、
有象無象の百の善行よりもはるかに優れていることを。
カアバの裡にあれば、キブラが何の役に立つものか、
水夫が雪靴を持たずして何の支障があろうか?
酔った者に、道案内を頼んで何になる、
ぼろを纏う者に、「襟を正せ」と命じたところで何になる。
愛の宗教と、その他すべての宗教は峻別される。
真に愛する者は、もはや宗教すら持たない。
あるのはただ神のみである。
「誰それの所有」と、未だ刻み込まれていないルビーであれば、
手にしたところで何の害も及ぼさない。
悲しみの海深くにあっても、愛そのものが悲しみなのではない。

カアバカアバ神殿)とは、現サウジアラビア領内マッカにあるモスクの中心部に存在する聖地。キブラとはそのマッカを指し示す方向のこと。

おやすみなさい、よい夢を。