『羊飼いを許す神聖なる啓示は如何にしてモーセ(彼に平安あれ)に下ったか』

前回の続き、『精神的マスナヴィー』2巻1772行から1791行までです。


それから神は、モーセの心の一番奥深くに眠る、
愛の感情に神秘の炎を灯された。
それは言語では決して顕わし尽くせぬ類いのものだった。
あらゆるコトバは、彼の耳を通すことなく心に直接降り注ぎ、
彼の視覚と聴覚とが、ひとつに混ぜ合わされた。
彼は幾度となく気を失い、また幾度となく我に返った。
何度となく高みを飛び、何度となく永遠を味わい、
永遠の、さらにその先の輝きをも味わった。
その味ときたら、それは筆舌に尽くせるものではない。
それよりも、それを味わった者が、
如何なる物語を紡ぎ出したかを記す方が賢明だろう。
なぜならば、それはわれらの理解をはるかに超えているからだ。
もしも私がそれについて語れば、(人の)心は自由を失い、
もしも私がそれについて書けば、多くの筆が砕け散るだろう。
神の啓示を授かったモーセは、
羊飼いを探して砂漠へと向かった。
モーセは砂漠の周縁に砂を蹴りあげながら、
惑いそのもののような羊飼いの足跡を辿っていった。
乱れに乱れたその足跡は、その他の足跡とは全く違っていた。
ある一歩は(チェス盤のように)前進したかと思えば、
またある一歩はビショップの駒のように斜めに進む。
ある時は波のように高く砕けたかと思えば、
またある時は魚のように腹這いになる。
そしてまたここには、まるで土占い師のように、
自らの心境を砂の上に記している。
そしてついにモーセは、羊飼いを視界に捉えたのだった。
ようやく彼に追いついて、吉報の伝達者たるモーセは言った。
「(神よりの)許しは下された。
(賞讃に)何の規則も、規定も求めるな、と。
痛む心が求めるままに、苦しむ心が求めるままに、
感じるままにあるがままに祈れ、と。
私が冒涜と規定したもの、それこそは宗教の真実であった。
そしてそなたの宗教は、精神の光輝そのものであった。
そなたは救われよう、そしてそなたを通じて、
(全ての)世界もまた救われよう。
ああ、そなたこそは守護されたる者、
神が『在れ』とお命じになられるままにある者。
さあ、恐れることは何もない。
思うままにそなたの舌を動かして言葉を口にするがいい」
「ああ、モーセよ」、羊飼いは言った。
「私はすでにその道を通り過ぎてしまった。
今の私は、私の心が流す血の海に浸っているのだ。
私は世界の果てまで旅をした、
世界から一番離れたなつめやしの樹を通り過ぎ、
更にあちら側の、十万光年もの彼方まで旅をした。
あなたは鞭をふるったが、私の馬は飛び退いて、
空のはるか彼方へと過ぎ去って行った。
大いなる自然よ、神聖なる造化よ、私を受け入れ給え、
私を、人を、あなた方自然の一部として受け入れ給え。
この卑小なる生き物に、
この手、この細い腕の持ち主に祝福を授け給え!
もはや私は以前のように、語ることに意味を見出さない。
今ここでこうして語る私自身、
真実『私』などという者ですらないのだ」


「砂漠の周縁に砂を蹴りあげ・・・」というのは、とてつもない努力をして、という意味でもあるそうです。

さて物語そのものはここまでで、この後に解説が続きます。

『精神的マスナヴィー』というのは全部で6巻ありますが、その中にはこのような物語が沢山収められており、ひとつひとつにルーミーから読者への解説に相当する部分がついてきます。そしてその解説部分が、更に次の物語の呼び水になる、といった具合の構成になっています。

解説についてはまた後でにして、今日はここまでです。

おやすみなさい、良い夢を。