『シャムス・タブリーズィ詩集』

ルーミーというひとはもともと神学者の家系に生まれたひとであり、自身もそもそもは宗教学者神学者だったわけですが、それがまたどうして詩作などを始めたのでありましょうか。


彼の詩人への突然の変身は一二四四年に起った。この年、偶然(か天の配剤か)一所不在、生涯無一物、飄々たる放浪の旅に生きる托鉢僧シャムス・ッ・ディーン・タブリーズィがコニヤにやってきた。この人との出逢いこそ、ルーミーの実存を根底から震撼させる大事件だった。彼は生れて始めて本当の霊的人間というものを目のあたり見た。今までのルーミーは死に、新しいルーミーとして生れ変わった。
タブリーズのシャムスは謎に包まれた人物である。彼が実在の人間であったことは確かだし、彼の言葉を記録した『言説集』Maqalatという書物も今に残っているのだが、彼がどんな生涯を送った人なのか皆目つかめない。むしろ、そんなことが全然問題にもならないような人だったと考えるべきだろう。ただ、彼が異常な精神的エネルギーを発散する傑物、というより怪物だったことは、『言説集』を一読するだけでもすぐ分るし、またルーミーほどの人をあそこまで感激させたことでも分る。それだけで充分なのである。・・・(中略)
『シャムス・タブリーズィ詩集』に表現されたルーミーのシャムスに対する感情は、正に身を焦がす恋慕の情である。その恋の相手は果してシャムスという人間なのか、シャムスを通して顕現する神なのか。
(『井筒俊彦著作集 11』p439~)

なぜ詩を書き始めたのか、と言うか、詩を書かずにはおれない動機を与えた人物との出逢いがあったということなのですね。

「シャムス」とはアラビア語「太陽」、「ディーン」は「宗教」を指します。ルーミーの名前の一部にも「ディーン」という語がありますね。「ジェラールッディーン」の「ジェラール(ジャラール)」は、「荘厳」などと訳されています。

以下は『シャムス・タブリーズィ詩集』の一編です。ここでは「Murid Khoda」=「神の人」としましたが、言葉ではなく言葉の意図するところに従うのなら、現代であれば「スーフィ」と訳した方がより伝わるのかもしれません。


「神の人」は葡萄酒も飲まずに酔い、
「神の人」は肉も食わずに腹を満たす。
「神の人」は撹拌し混沌させる気狂いであり、
「神の人」は寝食を必要としない。
「神の人」は修行僧のぼろ布を纏った王者、
「神の人」は退屈な日常を覆す一粒の財宝。
「神の人」は風にも土にも属さず、
「神の人」は火にも水にも属さない。
「神の人」は果てしなき海原、
「神の人」は曇りなき真珠をもたらす。
「神の人」は百の月と空とを有し、
「神の人」は百の太陽を有する。
「神の人」は真理にて学ぶ賢者、
「神の人」は書物にて学ぶ学者に非ず。
「神の人」は禁忌と宗教とを超越する、
「神の人」にとっては善も悪も等しく「一」である。
「神の人」には世の常なる価値は通用せず、
「神の人」はあらゆる束縛から解き放たれて自由である。
「神の人」は隠されている、
シャムスッディーン、・・・「神の人」を探せ!


おやすみなさい、良い夢を。・・・昼間に読んでいるひとも。