『精神的マスナヴィー』序章

『ルーミー詩撰』でも、「葦笛の歌」として取り上げられているので少し重複しますが、今日は『精神的マスナヴィー』の序章を読んでみました。未だに『精神的マスナヴィー』と表記するのか、『精神的メスネヴィー』と表記するのか悩ましいところではあるのですが・・・


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。


葦笛は語る、
 慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
 私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。
 別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
 愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。
 誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
 かつてひとつであった頃に戻りたいと。
 どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
 不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。
 それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
 私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。
 私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
 だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。
 魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
 また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。
 それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
 魂をかいま見ることを許された者など。


葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!
これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。
誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。
いったい誰が知るというのか、葦笛に優る毒を、薬を。
誰が知るというのか、葦笛に優る心の友を、不変の愛を。
葦笛は語る、かつて多くの血が流されたその「道」について。
マジュヌーンの情熱の物語について、繰り返し聴かせる。
愚か者には封印されたこの物語、
だが耳を持つ者であれば、誰にでもその舌は届く。
我らの悲痛に、時は立ち止まりもせず早々と過ぎ去り、
我らの日々は、燃え盛る悲嘆と共に手を取り旅立って行く。
そのように過ぎ去るものならば、日々など去らせておけ、
引き止める価値もないのだから!
あなた以外には何も残さずにーあなたこそが聖なる全てなのだから!
魚でもなければ誰しもが、かれの水で渇きを癒す、
日々の糧を持たぬなら誰しもが、日の長さにため息をつく。
何であれ生のものは、熟すとはいかなることか決して理解せぬ。
さればこそ私の言葉もここまで。
さようなら、永遠に!

ここまでで序章の1/2、「葦笛の歌」部分は、序章全体の1/3程度でしょうか。ペルシア語原文は、ある一定のリズムでもって流れるように韻を踏んでおり、リズム通りに「正しく」読むとある種の「効果」がある、と言うひともいます。

ちなみにこの部分は、「x_xx x_xx x_x」が基礎になるリズム。興味のある方は、CDなども出ているので色々と探して試聴してみてください。「効果」うんぬんは置いても、旋律はきれいなものが多く楽しめると思います。

読み物としての『精神的マスナヴィー』は、コーランについて、また西アジア文学についてほんの少し知識があれば、ああこの部分はあれを指しているのね、というふうに理解できてより楽しめると思いますが、それについてはまた後日です。