『精神的マスナヴィー』序章(後半)

『精神的マスナヴィー』序章、2/2です。


息子よ、おまえの鎖を断ち切り自由になれ!
いつまで銀貨金貨に繋がれた奴隷でいるのか?
海を水瓶に汲んだところで、いったいどれほどのものか?
一日分がせいぜいではないか?
欲望の眼という水瓶は決して満ち足りはしない
牡蠣の貝も、満ち足りてこそ真珠を抱くもの
愛に借り着する者のみが、欲望や全ての疵から清められる
味わい楽しめ、愛をーよきものを我らに贈り届けてやまぬ愛を!
我らの病全てを癒す医師、
我らの驕慢と自惚れにつける薬、
我らのプラトン、我らのガレノス!
地上を這いずるこの体も愛あれば空高く飛ぶ
重たい岩山さえも愛あれば軽やかに舞い踊る
愛する者よ、愛はシナイの山の魂となった!
シナイの山は愛に酔い、「そしてモーセは意識を失い倒れ込んだ」
思いをひとつにする奏者と巡り会いその唇が触れたなら
語られるべき全てを語ろう、私もまた葦笛のように
だがたとえ百の歌を持つ者であっても
同じ言葉を語る者と切り離されてしまえば舌を持たぬも同じ
ばらの花も枯れて朽ち果てた庭では
二度とナイチンゲールの昔語りを耳にすることもない
愛こそ全て、愛する者はヴェイルにすぎない
愛こそ生命、愛する者は死体にすぎない
愛に見放されれば翼を失った鳥も同然、何と言う惨めさ!
前にも後にも愛の光を見出せなければ
前と後とをどうして見分けることなどできるだろう
愛はこれらの言葉を欲するが
映さぬ鏡に語りかけたところで何の価値があろう
君は知っているのか、君の魂という鏡が何も映さぬその理由を
知っているのか、その表面が錆に覆われているのを


私の友人たちよ、この物語を聴け、
私たちの内なる世界の、まさしくその髄にあたるこの物語を。

序章はここまで。『精神的マスナヴィー』の26000行の韻詩はこんなふうに始まります。(厳密に言えば、形式上この序章の前にも序文があります)「そしてモーセは意識を失い倒れ込んだ」というのは、コーランからの引用です。

ルーミーと言えば、何の疑いもなくトルコの一地方・コンヤの人であるかのように考えてしまいますが、もともとアフガニスタンに生まれたひとです。戦禍を逃れるために、やむにやまれず生地を離れたのでした。言うなれば「ディアスポラ」ですね。

そんなふうに、東洋の偉大な人物に必ずついてまわる(と、西洋の学者達が呼ぶところの)『白髯三千丈』的伝説を取り除いて、シンプルに「生い立ち」というものを観察したり考えたりしながら読むのもいいかも知れません。