『内なる成長について』

伝えられるところによると、著名な法学者イフティヤルッディーン・ファキーフは、金曜の集団礼拝の後でマウラーナの館へ立ち寄ることを常としていた。ところがある時、法学者はいつもよりも少々遅れてマウラーナの前に現れた。マウラーナは彼になぜ遅くなったのかと尋ねた。

その日モスクで説教をしたのは、ホジャンド(※タジキスタン)からやって来たという導師だった。法学者は、説教の内容について考えながら歩いていたら、どうしても足が前に進まなくなってしまったのだ、と言った。そして未だに説教の内容について、どうしても頷けないのだと正直に話した。

マウラーナは説教の内容について尋ねた。法学者によればこうである:ホジャンドの導師は、彼と彼の仲間達の幸福と輝かしかるべき未来について語った。彼は聴衆に対し、(イスラム教徒であることの)幸福を享受せよ、と語った。イスラム教徒である限り幸福は約束されている、と語った。そしてイスラム教徒であることを神に感謝し、信仰せぬ者として生まれなかったことを神に感謝せよ、と語った。

マウラーナは微笑んで言った。「なんとまあ、並みいる預言者たちを差し置いて。『我こそは預言者なり』とでも言い出しかねない導師もいるものだ」

「実際のところ、彼の耳には預言者たちの言葉は届いておらず、従って預言者たちの心にあるものも届いてはいない。何故ならそのような人物には、そもそも自分自身の心すら見えてなどいないのだ ー 自分自身の心すら見えていない者に、どうして他者の心など見えようか。自分自身の姿かたちにのみ拘泥する者は、結句、他者の姿かたちしか見えていないのだ」

「そのような人物は重大な罪を犯していることに気付いていない ー 神の光を以て『見る』ことをせず、従って成長することもない」

それからマウラーナは、短い詩を即興で詠んだ。

ある者達は、神の玉座に目が眩み
玉座の周囲に群がって飛ぶ
ある者達は、玉座になど目もくれず
ただひたすらに神をのみ追い求めて飛ぶ

『Manaqib al-Arifin』とは『聖人伝』の意です。ここで読んでいるのは、「アフラーキーのマナーキブ」と呼ばれるものです。ルーミーの幼年期から青年期のこと、生前に内輪の人々に向けて語った言葉や講義などを、ルーミーの孫であり弟子でもあったチェレビーの指示のもとに、やはりルーミーの弟子だったアフラーキーが書き記したものです。